2009年12月31日 (木)
今期不振だった浅田真央が最後オリンピック出場をビシッと決めて、日本中のスケートファンも業界もホッとしたことだろう。
マスコミも「浅田、浅田」で大注目である。
私はその陰で惜しくも五輪枠を逃した中野友加里のことを思わざるを得ない。
中野友加里(24)は浅田真央(19)と安藤美姫(22)という2大天才スケーターの間でどうしても地味な存在であった。
とはいえ、どんな大会でもこの二人に食らいつこうとする中野の姿があった。
「私を見て。忘れないで。私はここにいるのよ。」といつも叫んでいるようであった。
ドーナツスピンというおそらく採点にはあまり反映されないオリジナル技を引っさげて常にその存在を主張していた。
しかし考えてみれば金メダリストの荒川静香も最後まで得意技イナバウワーで自分を主張し通したのだ。
私はいつも「中野友加里がんばれよ。食らいつけよ」と応援していた。
しかしながら、今回それまで無名で彗星のごとく現れた鈴木明子(24)に五輪枠を引っさらわれてしまった。
残念であろう。
しかし中野友加里よ、まだこの3人にもどんなアクシデントがあるとも分からない、諦めるな。
そうなったら君しかいないのだから。
久しぶりに「根性」という古典的なスポーツマインドを彷彿させるアスリートだった。
お疲れ様。
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2009年12月30日 (水)
しかし、この社長のような人物に出くわすと、過去の実に細かいことをよく覚えていて、しかもこちらに迷惑をかけたことなどおくびにも出さない。
こちらはときには忘れていたり、初めて聞くような話も多いのでどうしても受け身に回ってしまうのだ。
後でよく考えれば謝罪するほどの中身でもないことも、独特の解釈でこちら側が悪いことになっていたりする。
つまり、こういったことを言い慣れているのだ。
ケンカ慣れしている。
恒常的なトラブルメーカー、ある種被害妄想に近いマインドなのであろう。
昔、確か「バカヤロー!」という題名の映画があった。
さんざん虐げられ、痛めつけられてきた、主人公やヒロインが最後開き直って
「バカヤロー!じゃかあしいやい。黙って聞いてりゃあ図に乗りやがって、いいかげんにしろ!」
と反撃にでるオムニバス映画である。
全くそうしたい気分であったが、最後は文書で関与打ち切り、という穏やかな線で収めた。
まあこちとらは社会的責任もそこそこある大人である。
あまり無茶なこともできまい。
とはいえ、そこは生身の人間
「バカヤロー!じゃかあしいやい!」
と、啖呵のひとつも切りたかったなあ。
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2009年12月29日 (火)
こういう人物とケンカになると極めて不利である。
私はある時期
「人に親切にしてあげたことは忘れてしまいなさい。逆に人から親切にしてもらったことはいつまでも覚えていなさい。」
と教えられた。
なるほど素晴らしい人生哲学と思い、できるだけ心掛けるようにしている。
これが個人生活ならそれでかまわないのかも知れないが、ビジネスが絡んでくるとそうもいかなくなる。
言うべきことは言うべきときにきちんと言わなければならない。
とはいえ、普段トラブルを前提に仕事をしている訳ではないので、いちいち細かいことは覚えていない。
例え過去に齟齬があったとしても、その時解決してその後お互いに前に踏み出していればそれでいいではないか、と思ってしまうのだ。
そうでなければ今のスピード時代前に進めない。
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2009年12月28日 (月)
さてそこで、「ケンカの仕方」である。
つくづく、「ああ、俺は慣れてないなあ。」とため息が出るのだ。
この社長みたいなタイプの人間の特長として次のような点があげられる。
まず、相手との関係の中で、自分の不利益になったことに関してはかなり敏感である。
逆に、相手に迷惑をかけたことについてはあきれるほど鈍感かつ無頓着である。
更に自分から相手にしてやったことは、それが大したことでなくても実によく覚えている。
つまり恩着せがましい。
逆に相手からしてもらった行為は、全くもって都合よく忘れている。
或いは不当に過小評価している。
こう書いてくるとよくわかる。
こういう人物にとって自分が人にしてやることは、やることなすことすべて輸出超過なのである。
逆に、人からしてもらったことはすべて輸入不足なのである。
人間関係はバランスであろう。
輸出超過でも輸入超過でもストレスが生じてしまう。
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2009年12月27日 (日)
当初から、こちらが苦労している割にはなんだ、かんだとクレームは多かった。
現在の若手担当者になってクレームはさらに激しくなった。
こちら側の至らなかった点は頭をさげて、かなり譲歩したつもりだが文句は収まらない。
いつまでも同じミスを何回も何回もほじくり返しては責めてくる。
そこで考えてみた。
これは事実関係云々というよりもマインドの問題なのではないだろうか、と。
世の中人間関係にしろ、仕事の関係にしろ、お互い至らぬ点はあるわけで、それはその都度、謝罪したり譲歩したり前向きに改善したり、ときには妥協したりしながら進んでいくしかない。
その時に大切なのはコミュニケーションを基本にしたお互いの良好な関係性、つまり信頼関係である。
この社長には若い担当者のみならず、それをサポートするベテラン職員までが、その信頼関係が築けずに四苦八苦しているようなので今回私が出掛けて行ったのである。
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2009年12月26日 (土)
先日、文書で関与打ち切りの通知を出して1件顧問契約を解除した。
こんな形で関与を打ち切ったのは初めてである。
この関与先の社長とは、最近1ヶ月の間に2回ほど長時間話し合ったが、2回とも非常に不愉快な思いをさせられた。
そのやりとりがなかなか頭から離れなかったのだが、この嫌なことが頭から離れない自分にも腹が立った。
私にとって大変な悪循環だったのだ。
そこでいっそのこと忘れよう忘れようとするよりも、何故こんなことになったのか、書いてみることで正面から向き合ってみることにした。
まず、この会社は決算直前に人から紹介を受けたのだが、当初経理が全く整理されておらず非常に苦労して1回目の決算にこぎつけた。
その後、これではまずいからということで月次で関与することになった。
そこで通常の月次の顧問契約を結んだのだが、このときも料金のことで随分もめた。
先述のように最初の担当者は決算その他で四苦八苦した。
その後担当者が変わったが、先方に経理の専任者がいなかったために同じように苦労した。
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2009年12月25日 (金)
そんな長女ではあるが、一方で姉御肌の面倒見のいいところもあるらしく、友達だけはやたらと多い。
それも数だけでなくエリアが半端ではない。
ヨーロッパ各地、アメリカ、アジアにも長女が「友達」と称する知り合いが大勢いるらしいのだ。(私や家内には確認のしようもないのだが…)
尤も私には
「むこうもほんとにそう(友達と)思っているのかなあ?」
という疑問がないではないが、そんなこと言おうものならその100倍くらい言い返されそうなので黙っている。
冒頭、お姉ちゃんの圧力に妹や弟は被害を受けている、
と書いたが、長女に言わせると
「それ以上に私から恩恵も受けているのだから文句は言わせない。」
ということらしい。
この点は、次女も一番下の長男も「まあね」とある程度認めている。
長女がサンタクロースについてバラしたとき、
家内は次女に
「サンタさんは信じてる子供のところにしか来ないんだからね。あなたもちっちゃい子にはそう教えるのよ。」
と話して慰めたようだ。
その子供達も大人になった。
そんな風だった長女はまたもや
「世界1のクリスマスツリーを見ながらメリークリスマスだいっ!」
とかなんとか言いながらニューヨークへ行っている。
いい気なもんである。
ニューヨークは大寒波に見舞われているらしいが、寒さに弱い長女は震え上がっていることだろう。
ザマーみろである。
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2009年12月24日 (木)
私の長女は性格が悪い。
というか、そのきつい性格のために妹や弟はしばしば被害を受けている。
次女がまだ小さい頃だった。
といっても小学3年か4年生の頃だ。
次女はまだサンタクロースの存在を信じていた。
もともと大人びていた長女のことを家内は少し危惧していたようだ。
クリスマスシーズンになると長女に
「小さい子に『サンタさんなんかいないんだ。』なんて言うんじゃありませんよ。」
と注意していた。
にもかかわらず、ある年次女に向かって
「あんた、いつまでサンタさんなんて信じてんのよ。なものいるわけないじゃない。」
と言い放った。
次女も小学3,4年生、薄々は感づいてはいたようだが、そうはっきり言われてガッカリしたらしい。
「言うんじゃないのよ、っていってたのに。ったく、あんたはもう…」
と家内は長女をたしなめたが
「フンっ!」てなもんである。
基本的には長女のこういった性格は、大きくなっても変わっていないようである。
それどころかむしろ先鋭化しているみたいで頭が痛い。
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こうやって娘からのプレゼントを先に受け取ってしまったのだが、本来は次の日の娘の誕生日を祝うのがこの夜の趣旨である。
私と家内は成人し、独立した子供達にしてあげるプレゼントは昨年から決めていた。
それは健康診断の費用を出してあげることである。
「もの」に関しては子供たちは随分と豊かな時代に育っている。
もう「もの」はいいだろう、と家内と話し合ったのだ。
まだ若いといっても病気は怖い。
特に娘たちには、女性特有の病も多くなっている昨今、常に定期的な検査をやってもらいたい、と家内は考えたようだ。
先月の長女の誕生日も「検診に使ってね」とプレゼントとしての費用を渡していた。
そのお母さんのメッセージを添えて次女にも検診費用としてのお金を渡した。
少なくとも娘たちが独身のうちはこのプレゼントを続けるだろう。
私たち親の意図を汲んでくれればうれしい。
その夜の外は冬の雨がしきりに降っていたが、しばし子供達と温かい夜を過ごしたのでありました。
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2009年12月23日 (水)
その1個づつに手書きの小さなメッセージが添えてある。
私はプレゼントを開けてみるのもメッセージを読むのも鹿児島に帰ってから家内と一緒に、と思いその場では「ありがとう」と受け取るだけにした。
今年から勤め始めた次女のボーナスはわずかなものだろうと推察される。
なけなしのお金の中からのプレゼントに内心ではすごくうれしい。
それを素直に表現できないのが親父の欠点である。
鹿児島に帰ってこのプレゼントを父や母に渡すと、父はそれだけでもうウルウルしていた。
実際、次女にお礼の電話をかけながら父は
「涙が流れてしょうがなかった」
といっていた。
父も年を取って涙腺がかなりゆるくなってきたらしい。
ミーハーと思っていた娘もこうやって大人になっていく。
「俺たちも歳を取るはずだよなー」
プレゼントを開けながら家内と話すのであった。
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2009年12月22日 (火)
彼らの話を理解しようと、少しワインで酔いのまわってきた頭を更にフル回転させるがよく分からない。
要するに感覚的な問題なのであろう。
こんなことは今までなかった!
「俺はいつの間にか、ミーハーと思っていた次女にもボーっとしていた長男にも置いて行かれたというのか!」
「ヤバイ!もっと情報力、感性を磨かねば…」
そんな心情はおくびにも出さず、「フンフン」と分かったような相槌を打ちながら東京の夜は更けるのであった。
さて、次女はバッグ以外に大きな紙袋を下げてきたと書いたが、そこには更に小分けした包みが沢山入っている。
何だろう?と思っていたが、それは次女が初めて貰ったボーナスからみんなに買ってくれたプレゼントであった。
私と家内、私の父と母(つまりおじいちゃんとおばあちゃん)、その場にいた長男(つまり弟)に1個づつ10センチ四方くらいの箱が可愛くラッピングされていた。
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2009年12月21日 (月)
娘や息子と現代の先端的なテーマについていろいろ話をしていて思った。
こちらにそういった素養がまるでないわけではないが、結構タフな会話に頭は既にフル回転である。
この間までボーっとしていると思っていた長男がそんな様子なので少し感慨深いものがある。
その時ちょっと感じたことがある。
長男が今取り組んでいる先端的なテーマについて話を振ってくる。
そうすると次の日に23歳になる次女が、
「それって例えばこういうことなんだよね。これこれこういうことと似てるんじゃない?」
とその話題をひきとる。すると息子が
「そうなんだよ。つまりそういうことなんだけどさー…」
と相槌をうつ。
このとき軽くショックだったのは、その次女が提示する「例え」が何故そうなのかがよく分からない。
「似てるんだよねー」と彼らが言っているその内容のどこが類似しているのかがチンプンカンプンである。
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2009年12月20日 (日)
久しぶりに上京した。
2年間所属していろいろなコンテンツを作り上げた税理士仲間の小委員会がいよいよ解散の時を迎えたのだ。
前日東京に入った私は次女と長男との3人で食事をした。
次の日は次女の誕生日だったので、誕生祝いを兼ねた夕食となった。
午後8時前に私と長男は待ち合わせの店に入り、注文をしながら次女を待った。
やがて勤めを終えた次女がやってきたが、手にはバッグ以外に大きな紙袋を下げている。
ビールで乾杯をし、ワインを飲みながらいろいろな話をする。
今年大学に入った長男は学校での課題が多いらしく、様々なテーマを話の中に振ってくる。
クラウドコンピューティング、マネジメント、マーケティング、ユビキタス社会、テーマは現代の先端で取り沙汰されている内容ばかりだ。
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2009年12月19日 (土)
そんな祖母の目には、後継者候補である若い従兄は少しドライな感じにでも映っているのだろうか。
祖母は私に
「お前があの子を手伝って、会社を支えてやってくれ。」という。
「ばあちゃん、俺には俺の仕事があるし、それに俺がしゃしゃり出たりしたらあいつ(従兄)も迷惑だよ。」というと
「いいや、お前のできる範囲でいいんだ。わしが悪いようにはしないから。」
と後には引かない。
それどころか、会社のことをしゃべっている内に言葉つきもしっかりしてきて、目も爛々と輝いてくる。
顔つきは完全に経営者のそれになっていた。
99歳の祖母の経営者魂はまだ全く衰えていない。
それどころかまだ夢も志(こころざし)も持っているのだ。
祖母の会社を、周りはこれまでに既に充分立派な会社に育ててきたと評価しているのだろう。
しかし、祖母は更にもっといい会社になって欲しい、と思っている。
祖母は来年百歳である。
少し前に占い師に「あなたの寿命はあと5年は大丈夫」と言われたそうである。
真偽のほどは定かではないが、祖母は百歳を過ぎても会社をよくするためには一歩も引く気はなさそうである。
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2009年12月18日 (金)
会社は私の母の弟達、つまり私の叔父たち二人が立派に経営している。
後継者も上の叔父の息子(私の従兄)が次期経営トップとして育っているのだ。
しかし祖母はそれだけではまだ満足できないらしい。
人をとても大切にして経営してきた祖母は祖母なりの経営哲学を持っているのだろう。
私が驚いたのはその信念が、現在のような状況になっても全く衰えていないことである。
少しそんな話をやりとりしているうちに、祖母が会社を完全な社会的公器としてとらえていることがわかってきた。
対外的な信用の大切さ、経営者の責任の重さ、そこで働く人達とその家族の生活と幸福観、といった観点でものを考え発言している。
祖母には学歴など何もない。
自ら苦労してきた中で獲得してきた価値観なのだ。
私と家内は今さらながら、それまであまり知ることのなかった祖母の奥の深さに驚愕し、舌を巻いてしまった。
こうなると、同じ施設内にいる他の老人たちとは明らかに異質な存在に思えてくる。
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2009年12月17日 (木)
ところがある日、いつものようにお見舞いに行くと、
祖母がいつになく真剣な顔をして
「お前に大事な話がある。」
という。
なんだろう?と思い、祖母の顔に耳を近づけた。
祖母の声は弱々しく、大事な話は近くでないと聞きとれない。
そうすると驚いたことに
「お前はわしの会社の面倒を見なさい。」
という。
祖母は今でも明治時代に創業した老舗のお菓子屋の会長をしているのだ。
個人商店だったお菓子屋は今では立派な会社組織になっている。
とはいえ、会長といっても肩書だけだし、しかもこんな生活の中でとっくに会社のことなど意識にないのだろうと思っていた。
ところがどっこい、この日の話は、祖母がまだ立派な経営者マインドを持ち続けていることを証明したのである。
予想外の展開に、私も隣りで聞いていた家内も驚いた。
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2009年12月16日 (水)
私の祖母は現在99歳である。
来年の3月で百歳を迎える。
もう何年も前から地元の介護施設で暮らしている。
それまで一人暮らしをしていたのだが、ある日ベッドの横に倒れているのを発見されて、24時間介護付きの施設に入ることになったのだ。
母方のこの祖母にとって私は初孫である。
週末、家内と一緒にお見舞いに行くと、いつもとても喜んでくれる。
ベッドに腰かけていることもあれば、寝ていることもある。
いずれにしても移動は車椅子なので、誰かの介助がなければ動くことはできない。
年の割に頭は比較的シャキッとしていて、訪ねて行くとよく昔話をしてくれる。
幼いころ祖母の家で育てられた私については、いろいろな思い出があるようだ。
ある日、幼い私は近所の映画館で映画を見ながら寝込んでしまって、夕方になっても帰らず、大騒ぎになって探したことがあったらしい。
丁度同じ時期、東京で幼児の誘拐殺人事件があったため、よほど心配したのだろう、その話は繰り返し出てくる。
ボケているわけではないが、同じ話も多いので、家内も私も、老人によくある特定の記憶の領域だけの狭い世界に入ってしまっているのだろうと思っていた。
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2009年12月15日 (火)
「挨拶の仕方」とか「上手なスピーチの仕方」とかの本のコーナーが書店の結構なスペースを占めているが、あれも私には理解できない。
あんなものを読んでテクニック的にそつなくこなして何になるのだろうと思う。
何にしても自分の言葉で自分の考えを伝えなければ聞く相手には響かない。
ある程度場はわきまえるべきだし、独善に走っては話にならないが、オリジナルの言葉は持てるよう努力すべきだろう。
スピーチといえば最近亡くなった森繁久弥氏がその名人であった、と聞いたことがある。
いかなる場でも短い時間の中で人の心を打つ、心に残るスピーチをされたそうだ。
考えてみれば、そりゃそうだ。
日本第1級の役者であり、しゃべるプロだったのだから。
私も誰かの講演CDの中のエピソードで、その絶妙なスピーチについて聞いたことがある。
森繁氏には遠く及ばないまでも、味のある私らしい挨拶ができるようになれればいいなと思っている。
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2009年12月14日 (月)
型通りの挨拶は大きな企業の支店長や支社長、お役人などにそつなくこなす人が多い。
「それでは誠に僭越ではございますが、本日ご列席の皆みな様のご健勝と、関係各団体様の今後益々のご隆盛ご発展をご祈念いたしまして云々…」
といった言葉がよどみなく出てくる。
この辺は税理士よりはるかにうまい。
元々エリートの彼らは入社直後からこういった訓練を重ねてきているのだろう。
別に批判しているのではない。
それはそれで立派なことだと思っている。
私には真似したくてもできないのだから。
ただ、いくらよどみなくそつなく挨拶ができたとしても、それでその人物が記憶に残るということはない。
そもそも、型破りの挨拶をすることなど彼らには及びもつかないことだろう。
とはいえそろそろこんな挨拶のパターンから抜け出してもいいと思うのだが…。
それよりも、その前に懇親会付きの会議、例会といった慣習を見直した方がいいのかも知れない。
日本は大量の食糧を廃棄していると、世界からの批判も厳しいことだし。
中年以上の男性諸氏のメタボが気なる昨今、宴会料理はその多くが残飯になっている。
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2009年12月13日 (日)
本当を言うと挨拶は苦手ではない、タイトルと矛盾するようだが…
正確に言うと、型通りの挨拶は苦手である、ということになる。
ちょっとした会の挨拶で
「本日ご参集の皆様におかれましては、誠にお忙しい中…」
とやらなければならない、あれが苦手なのだ。
ときどき無理をしてそんなフレーズを入れようとするのだが、大抵舌がもつれて却っておかしなことになる。
それでも立場上挨拶を頼まれることも多い。
そんな時は直前まで何も考えないようにしている。
極端な場合、演壇に上がってから思いついたことをしゃべることもある。
だから、直前に
「実は今日の締めの挨拶をお願いしたいのですが…」とか
「係りの者がお伝えするのを忘れていたようで申し訳ないのですが挨拶を…」とか言われても私は平気である。
「あ、いいすよ」と答えることにしている。
「聞いてないよー」と一応のポーズを取って見せたりもするが、それもネタに使うくらいである。
先方が型にはまった挨拶を想定していたとしたら、私に頼む方が悪い、と開き直って適当に挨拶している。
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2009年12月12日 (土)
IVY、アウトドア時代、そして現在を通じて変わらないのがジーンズである。
ジーンズについては以前にも書いた。
ちゃんとしたGパン(当時はこっちの方が一般的な呼び方だった。)を初めて買ったのはアメ横であった。
本物が欲しくてわざわざアメ横まで出かけたのだ。(40年くらい前の話です)
当時はボタンフロントが何となく面倒くさく思えて、リーヴァイスの501ではなくジッパー使用の502を買った。
その時は502もメイドインUSAだった。(今は日本製が多い)
現在所有の「501」2本、
穿き込み年数で色落ちに差がある
この瞬間から以前にも書いたように私のジーンズ放浪記が始まったのだ。
未だに究極のジーンズを探しあぐねているが、結局501にとどめを刺すような気もする。
着るものには今でも割と関心がある。
適当なところで妥協はしたくない、と思っている。
しかし、矢鱈と金をかけてブランドものなどを買いそろえるのも今さらみっともない。
敬愛する故石津謙介翁は
「男に必要なのはファッションではなく、スタイルである。」
と確か言っておられた。
緊張感のあるエッジの効いたファッションは若い奴らに任せよう。
お洒落なようだけど、でもどっか抜けていて、ちょっとホッとする好ましくユーモアのある大人のスタイル、を楽しみながら追及して行ってみたい。
アイルランド製のアランセーター、
本格派だが重くて着る機会はない
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2009年12月11日 (金)
当時、私も小ぎれいなIVYファッションに負けず劣らず、このごっついアウトドアファッションのとりこになった。
下手すればサバイバルでもできそうな高機能ウェアを敢えて街で着る、というコンセプトがたまらなく私の感性を刺激したのだ。
「フィルソン社のマッキノークルーザー、重いが温かい」
初めてダウンパーカを買った時の衝撃は今でも忘れない。
確か「エディーバウワー社」のかなり上質のものだった。
「世の中にこんなに軽くてこんなにあったかい服があるのか!」と驚いた。
学生生活を送る中、友達のアパートの炬燵で雑魚寝するときも、足は炬燵に突っ込んで肩のあたりにダウンパーカをかぶって寝ると異常にあったかかったのを覚えている。
ペンドルトンのバージンウールシャツも大好きだった。
今でも4枚ほどクローゼットの隅のハンガーにかかっている。
これも学生時代は結構高嶺の花で、1枚目は丸井のクレジットで買ったのを覚えている。
寝ぼけたような赤いチェックのボタンダウンの奴が一番お気に入りの1枚だ。
ただ残念なことにウールシャツというのは悲しいほど実際には着る機会が少ない。
「ペンドルトンのバージンウールシャツ、赤のチェックがお気に入り。」
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2009年12月10日 (木)
セミナー速報のため「IVY…」は1回休みます。
先日11月27日(金)今期2回目となる事務所主催の「経営革新セミナー2009」を開催し、無事終了することができました。
今回は初めての試みとして、曽於市内にあります「弥五郎伝説の里」の中のセミナー室を借りての開催となりました。
またこれも初めてですが夕方18時30分からという夜の開催を試みてみました。
午後6時30分から9時までの2時間30分、ご参加の皆様には最後まで熱心に聞いていただきました。
私の挨拶と簡単なオリエンテーリングの後、まずこの金融危機を懸命に乗り切った下請け企業を描いたDVDを約30分間流しました。
今回のDVDは経営危機に直面したある企業が、会計事務所との二人三脚で、銀行や社員を巻き込んでどう乗り切ったかを描いた力作です。
次に若手職員の伊藤が変動損益計算書について解説しました。
初めての講師ということでかなり緊張していたようですが、却って初心者のみなさんにも分かりやすい説明ができていたようです。
休憩を挟んで私が、変動損益計算書から考えられる事業における優先順位とそれによって何を追求すべきかを解説しました。
更にこの優先順位を受けて取り組むべきマーケティング的アプローチについて説明しました。
今回のコンテンツは私が宮崎、新潟、名古屋、鹿児島市、沖永良部島、志布志市など、全国でお話ししたものと同じ内容です。
全国レベルで理解を得られたコンテンツです。
経営革新へ更なるチャレンジを続けましょう。
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2009年12月 9日 (水)
そのIVYファッションの2世代くらい後にアウトドアブームと言うのがあった。
正確に言うとアウトドアファッションブームといっていいかもしれない。
登山やキャンプなど縁もゆかりもなさそうな若者も、それらしいファッションを身にまとって街にあふれていた。
当時流行ったものはいくらでも挙げることができる。
ダウンベスト、マウンテンパーカ、バージンウールシャツ、クライミングパンツ、アランセーター、ラグビージャージ、きりがない。
カウチンセーター、マッキノクルーザーなんつうのもあったなあ。
ダウンベストを着た私(靴を履いていないのが情けない)
こうやって挙げていくとほとんどすべて横文字である。
アメリカ発のカルチャアーだったのだから仕方ないのだが…
あの頃はごつい登山靴やレッドウイングのワークブーツを履いて新宿や渋谷の街を闊歩していた。
しかし、靴底がごつごつしていて硬いので、コンクリートジャングルを歩き廻るにはあまり適していなかったっけ。
考えてみれば何のことはない、ほとんど着なくなったものの全部ではないが、実は私が今でも持っているものなのである。
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2009年12月 8日 (火)
それからIVYファッションに欠かせないのはネイビーブルー、金ボタンのブレザーである。
これも数十年来、私のワードローブから外したことはない。
冬用としてフラノのもの、夏用としてトロピカルウールのもの、1年中常に側(かたわら)に存在しているのだ。
こいつもBDシャツ同様、カジュアルにもビジネスにも汎用性が広い。
ときどき、ファッション誌などで
「今年はネイビーのブレザー(紺ブレ)が流行る!」
なんていう特集を組んだりしている。
これには大いに違和感を覚える。
私などはこいつ(紺ブレ)を流行などで捉えたことがない。
昔っから、鉄板の定番、無くてはならないパートナーなのだ。
3つボタンフラノのネイビーブレザー
チェンジポケット付きです
もう一つ、今は私の手元にはなくなってしまったが、IVYファッションの定番にシェットランドウールのクルーネックセーターという奴があった。
これはスコットランド北東にあるシェットランド諸島の羊から採れるシェットランドウールを使用した少しざっくりとしたセーターで、何とも言えない味がある。
近年カシミアなどの肌触りの良い柔らか系ウールに押されて影が薄くなってしまったが、質実剛健の雰囲気を残すラフな感じの捨てがたいセーターである。
質の良い1枚を見つけてまた手に入れたいものの一つである。
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2009年12月 7日 (月)
IVYの入門編は、まずはボタンダウンシャツである、といっても過言ではないだろう。
襟先にボタンが付いていて、カジュアルにもビジネスにも使える。
この絶対的な汎用性は男性諸君の圧倒的な支持を受けた。
ブルックスブラザーズに始まったと言われるBD(ボタンダウン)シャツはやがてメンズファッションを代表する1アイテムとして世界中に広まった。
BDシャツは、何といってもブルーのオックスフォード生地のものが基本である、と私は思っている。
実際、ブルーのBDシャツは今まで何十枚買ったか分からない。
究極のブルーBDシャツに出会えないものか、と今でも試行錯誤しているのだ。
改めて数えてみたらブルーBDは6枚もありました。
考えてみれば「ブルージーン」と「ブルーBDシャツ」は究極の一本、或いは一枚を、いい歳した今でも探し続けている。
おそらくこの二つがメンズファッションの最も基本の部分にデンと存在しているからであろう。
いつか究極の一本、一枚に出逢って、もう探すのをやめたいくらいなのだが、なかなかそうも行きそうもない。
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2009年12月 6日 (日)
当時IVYルックと呼ばれていたVANのファッションはまさに時代を席巻した。
ただ、その欲しくてたまらない服が、鹿児島の田舎では思うように手に入らない。
当時VANは田舎の若者には、私に限らず
「とりあえずVANの服なら何でもいいや!」
と言うくらい支持されていた。
VANの生みの親、石津謙介氏は2005年、高齢で亡くなった。
経営者として、事業は一度失敗されたのだが、その後の生き方などは洒脱でしたたかでとても魅力的に見えた。
私など機会があれば一度講演にお呼びしたいと考えていたくらいである。
著書も多い。
男のダンディズムの達人、大先輩として何冊も読ませてもらった。
石津氏の著書と雑誌の特集
VANが他のアパレルブランドと決定的に違ったのは、それを愛する人のライフスタイル、生き方にまで重大な影響を与えたことである。
当時、その影響力は非常に広範で奥の深いものであった。
VANはその全盛時代、いわゆる「カッコイイ」の基準を次々と作ってくれていたような気がする。
団塊の世代、その前後の若者は大なり小なり、このVAN、それが提唱したIVYファッションに影響を受けて大人になったと思う。
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2009年12月 5日 (土)
先日「ジーンズとネルシャツ」というテーマでこのブログを書いた。
その時は、下手をすると30年近く箪笥の奥に眠っていたネルシャツやコーデュロイシャツがあって、それをガーデニング用の作業着に引っ張りだした、という一件を書いたのだ。
ところが、これが私の眠っていたファッションの思い出に火をつけた。
思春期を過ぎた頃から、あれこれとトライしたり失敗したりしながら身につけていった、ファッションの思い出や私なりの思い入れなどを少し書いてみたい。
私は1952年(昭和27年)、団塊の世代のすぐ後に生まれた。
ちょうど中学生くらいの時にファッションブランドVANの洗礼を受けた。
VANと言っても今の若い人はほとんど知らないだろう。
逆に団塊の世代前後の人たちにとってはたまらなく懐かしい響きを持つのではないだろうか。
といっても、企業としてのVANジャケットは1978年、1度倒産した。
その後復活したが、昔ほどの影響力は今はない。
インターネットで検索するとかつての懐かしい数々のファッションアイテムが今でも販売されている。
唯一残っているVANのギンガムチェックのボタンダウンシャツです
VANは当時の若者に絶大な影響を与えた。
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2009年12月 4日 (金)
森山小学校は、全児童数18人の小さな小学校である。
今回は5年生と6年生の合同授業で、2学年の児童数は合わせて7人、この日は1人欠席で6人であった。
インフルエンザが流行ったらしく、前の日まで学級閉鎖をしていたそうだ。
「みんな病み上がりでマスクをしています。少しボーっとしているかもしれません。」
と教頭先生に言われた。
6人しかいない教室は、子供達との距離が非常に近い。
フェイスtoフェイスでお話しできるのは、相手の反応が良く分かるので私としてはやり易い。
但し、全員マスクをしていて顔が半分しか見えなかったが…。
「みんな税理士なんてきっと全然知らないよねー。」
てなところから始まって、顔を見合せながらいろんな話を投げかけて行く。
途中、電気自動車は何故世界中で注目されているのか、エコカー減税や限りある地球資源の話などに触れながらやり取りしてみる。
終りの方で
「今盛んにニュースで流れている『事業仕分け』ってわかるかなあ?」
と問いかけたが、これはあまりピンとこないようだった。
45分はあっという間に過ぎ、まだまだというところで終わってしまった。
もう少し時間が欲しい、と思った。
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2009年12月 3日 (木)
例年租税教室の講師を引き受けている。
これまで高校生、中学生を相手に何回話をしてきたか数えきれない。
ところが、そんな私も小学生を相手に話をしたことはまだなかった。
今回その小学生を担当することになったのだ。
私が担当するのは志布志市立森山小学校である。
税理士会の支部例会で割り当ての一つとして引き受けたものの、小学生相手にはて、どんな話をしたらいいものだろう?
教材は沢山ある。
パンフレット、ビデオ、クイズなんてのもある。
そういったありものを使うことも考えたが、もともと45分しか授業時間がないのでちょこちょこやっていたら児童と話す時間がとれない。
結局、自前のレジュメを作って、できるだけ児童と直接やり取りすることを考えた。
授業時間の少し前に着くと教頭先生が待っていてくれた。
校長先生はあいにく留守であった。
しばらく教頭先生と話をして教室へ向かう。
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2009年12月 2日 (水)
田皆岬の断崖絶壁は、TVのサスペンス劇場のラストシーンを思い出させる。
船越英一郎かなんかの刑事が
「奥さん、早まってはいけないっ!死んでどうなる。悲しむ人が増えるだけだっ!」
と、強風のなか叫ぶ。
女「それ以上こっちへ来ないで!どうせ私なんか生きていたって仕方ないのよっ!ほっといて。」
てなセリフが聞こえてくるようだ。
それにしても、撮影するにもここじゃ本当におっかないだろうな。
少し視線を変えて沖の方を見ると、荒れた海をウミガメが数匹泳いでいるのが見えた。
オーストラリアのケアンズ沖のグリーン島で、1匹泳いでいるのを見たことはあるが、集団でいるのは初めてである。
ちょっと感動する。
この日は海からの風が強く、四つん這いになってもなんとか海を覗き込むことができたが、これが陸から海への風だったら、おっかなすぎて崖っぷちまで近づくこともできなかっただろうな、と思う。
私だってあれだけ腰が引けた。
本物の高所恐怖症の人だったら崖の傍(そば)までも行けないだろう。
というわけで、沖永良部島、最後の日は私の閉所恐怖症、高所恐怖症を大いに満足させくれることとなったのである。
Sさん、いろいろとご案内いただきありがとうございました。
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2009年12月 1日 (火)
狭くて暗い所がつくづく苦手なことを自覚しつつ鍾乳洞を後にした。
Sさんと車を走らせて今度は海っ端へと向かう。
途中、島の隅々まで畑が開墾されていて、そのほとんどにサトウキビが植えられていることに改めて気付かされた。
その畑の中を走ることしばらくすると、海の見える高台へ着いた。
車を降りて緩やかな傾斜を海っ端へと歩く。
白い灯台が目にしみる、田皆岬というところである。
海からの強風を全身に受けながら野芝の原っぱを海へと向かう。
原っぱの端っこがだんだん近づいてくると、野芝が突然途切れて目の前は断崖絶壁であった。
あまりの高さにほとんど四つん這いになって海を覗き込む。
高い!とにかく高い!
下の岩だらけの海岸に打ち寄せる、東シナ海の波が随分遠くに見える。
柵もなにも無いので極めておっかない。
この断崖絶壁の海までの距離は相当なものである。
私は日南海岸の近くに住んでいる。
太平洋に面した都井の岬やなんかで断崖絶壁はある程度見慣れている。
東京に住んでいる頃、南伊豆や西伊豆にも度々遊びに行って険しい海岸は随分見てきた。
しかし、これほどの高低差は初めてである。
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